序文とあとがきの人のブログ

画像はスマホでは拡大できます。記事の題名の下にあるタグをクリックまたはタップすると記事を細かく分類したページに移動します。最近は数学を語ることもあります。

有名人の考え事

人には人の苦痛がある. 人の苦痛とは感情的な物であり, 端的に言えば「生き続ける苦しみ」以上に表現できないことがある. 戦争体験者が自身の体験を語ろうとしないのはそれを思い出すのが彼ら彼女らにとってそれこそ苦痛であるから, というのもひとつの原因だろうし, 苦痛というのは実際に体感しないとわからない部分が非常に大きい.

苦痛を語らないことは苦痛を体験していないことではないのだ. その人にしかわからない, その人だけの苦痛がある. 語るための言葉も, 語ったとて聞いてくれる人がないこともある. 語っていないことは苦痛ではないことではないのだ. 人生とは怒りと悲しみの積分である. その積分値の許容限界は人によって違う.

下手に抽象的に自身の苦痛を語ると根性論を叩きつけられることもあろう. しかしあまりに具体的すぎると今の時代にとってはかなり危険である. その塩梅が難しい.

私には重度の発達障害と小学生時代から積分してきたトラウマと怒りと悲しみがある. とにかく行動して失敗しなければ学ぶことができない. やらなかった失敗よりやった失敗のほうがまだマシなので失敗を重ねてきた.

とある人が有名になると, その人のSNSアカウントの発言がその人の公式見解でありその人が語らないことはその人の感情でも論理でもないかのように思われることもあろう. しかしそれは違う. その人の発言はその人を物質に例えると発言は原子ひとつにも満たないことがある. その人がその人の苦痛を語ればそれは苦痛であるが, 語っていなければ苦痛でないとは限らないのだ. ひとつの事実より百のうわさが広まりやすいのは決して健全ではない. 人には人の, 言葉にしきれない苦痛や黙秘権がある. 下手にうわさを流せば名誉毀損にもなりかねない.

地に平和あれ

理性と知性

理性と知性は比例しない. それどころか反比例する人間がいる. 数学について指摘と攻撃を同時にする人, もしくは指摘せず攻撃をする人がいる. たくさんいる.

義務教育では理性の大切さは教えない. 知性と言っても勉強方面の知性しか教えられない.

しかし私は小学生の頃に担任の先生が「自分がされて嫌なことは人にするな」と話していたことを強く覚えている. まさにその通りだと思った.

数学において, いや数学以外でも, 間違えたことがない人はいない. 間違えたならやさしく教えればいいのである. 攻撃は不要である. 何かをうっかり誤解することは人格の醜さを意味しない. しかし間違えた人を攻撃する人がいる. たくさんいる. そういう人らには知性はあったとしても理性はない. 酒を大量に飲んで生きているのではなかろうか. 自分がされて嫌なことを人にしているなら, 自分がされたら何と言うのだろうか.

私も, 指摘と攻撃を同時にされたり, 攻撃をされたことがたくさんあった. Amazonレビューにコメントの機能があった時には執拗に誹謗中傷されたことがよくあった. ナビエ-ストークス方程式について, 数学がよくわからないフォロワーにも配慮して研究結果をツイートしたら数学界隈で炎上したこともある. そんな人らに知性はあるとしても理性はないのではなかろうか. Twitterではクソリプやクソ引用リツイートもたまにされる. ストロングゼロを10本くらい飲めばそんなこともできるのだろうか.

理性を身につけさせるにはどうしたらいいのだろうか. やはり初等教育で理性の大切さを教えてほしい.

しかしどうやって教えればいいのだろうか. ああ, fuck.

Oh, 脳

私はASD(旧診断名:アスペルガー症候群)という障害を持っている. だからあまり興味のあることが少ない. 新たに何かに興味を持つことは稀である. しかもADHDもある. 躁うつ病による慢性的なうつ状態もある. だから疲れやすいか既に疲れている. 疲れた時の休み方がわからない. おまけに不眠か過眠かどちらかしかない. それでも数学をしてきた. 数学が大好きだから.

 

20代後半から脳がオーバーヒートしやすくなった. 2時間も数学をやれば5時間は休まないといけない. それでもまた数学がやれるのは1時間くらいであった. コロナにかかる前はむしろロードバイクで3時間半以上走れていたのだから, ロードバイクで走れる時間のほうが長いくらいだった. しかしコロナにかかり, 治りはしたが数学をやる体力すら激減してしまった.

 

老化でいつか数学がやれなくなるのではないか, 老化でいつか数学がやれない生活になるのではないか, 老化で数学がやれない人生になるのではないか.

 

脳の疲労は休ませることでしか回復させることができない. 一番良いのは寝ることである. しかし私は最近短時間で目が覚めてしまい, その後は浅い眠りを繰り返している. 悪夢もみる. 結局5時間くらいしか眠れないことが多い. 過眠の時は12時間から16時間は寝ているが, そもそも過眠の時は数学もやれないくらいの心身である.

 

数学をたくさんやりたい. しかしすぐ脳がオーバーヒートする. これが老化なのか. 集中力は体力の単調増加関数だと思って体力を回復させようとサイクリングをがんばってきた. しかし思うように集中力が回復しない. かつては10時間半くらい数学をやれたことがあったのに.

 

数学をたくさんやりたい. さもなくば死にたい.

つらくても数学がしたい

以前から語りたい数学がたくさんあったのと, リクエストを受けたから, また数学を語る.

私は数学が大好きだ. 気がついたら数学をしている. 気がついたら数学のことを考えている. 数学に疲れても数学は語っている. 数学へのこだわりが発達障害由来なのか感性由来なのか悩んだこともあるが, とにかく数学が大好きだ.

私は小さい頃から論理的に考える癖があった. なので, 中学2年生の時に, 初歩や基礎が論理的にあいまいなまま問題を解いてばかりの, 学校の教科としての数学に疑問を持った. 初歩や基礎が論理的にしっかりした学問があるはずだ, それが数学のはずだ, と中3の数学も知らなかった私は中学の図書室に行った. そしたら数学の本が何冊もあり, 問題を解くことに終始するのではなく, 基礎を語る姿を見て,

 

惚れた.

 

確かに中学2年生の段階でも, 文字式の抽象性ゆえの汎用性や, 連立二元一次代数方程式には未知数が2つあるのに方程式が2つあれば解が定まることに感動していた(無数に解があったり解が存在しない例は後に高校数学にあった行列で知ることになる). そんな自分が知らない世界を見て, もっと知りたくなった. 

まずは円周率の暗記, 式の展開と因数分解, 簡単な微分積分から始めた. 結局円周率の暗記は話のネタにしかならなかったが, 楽しかった.

中学2年生の秋には小さな発見(https://pdem.hatenadiary.com/entry/2021/10/07/205705)があった. 私が数学人生を歩む最初のきっかけだったかもしれない.

その後, 三角関数の加法定理

sin(α+β)=sinαcosβ+cosαsinβ

cos(α+β)=cosαcosβ−sinαsinβ

の, sinとcosとαとβの入り混じった数式に感動して, 三角関数の定義より加法定理を先に覚えた. 今の数式に興奮する性格はこれが発端かもしれない.

そして, オイラーの公式とその特別な場合

e^iπ=−1

e^ix=cos(x)+i sin(x)

を知って,

 

なんだかよくわからないけどすげえ!!!

数学者になりたい!!!

 

と強く思った. それまで化学や物理学も学んでいたが, 数学に傾斜した. 高校数学や平行して学べる大学数学(微分積分複素関数)を

 

とにかく必死にやった. 理解できるかはともかく必死にやった.

 

しかし, 中3の時, 不良グループからのいじめや思い出すだけでも腹が立つほどの奴からのいじめが激化すると, 次第にうつ状態が頻発し, 時には数学もやれなくなる. それでも数学に惚れた私は, やれる時には必死に数学をやった. そんなことでは当時惚れていた女の子と同じ高校には行けないとわかっていたが, 今と同様, 精神的にしんどくてもがんばれることは数学しかなくなっていた. ちなみに結局その人には何年か前に振られた. つらい.

そんな中3の時期, 給食前にはたまに同級生に数学の話をしていたが, 或る日, 黒板に高校数学Ⅲの区分求積法の公式を書いたらクラスが騒然としたのはいい思い出である. うれしかった.

同級生たちの中では勉強はできるほうだった. しかし天才たちには及ばない. だから独自の数学で勝ろうと考えた. 今も世の中の天才たちには及ばない. だから独自の数学で勝ろうと考えている.

結局, 激化したいじめにより受験勉強には耐えきれず, というか人生に耐えきれず, 生まれて初めて

 

死にたい

 

と強く思った. しかし数学だけはしていた. 数学だけは. 学校や受験の勉強は, とある私立の推薦入試に受かる程度しかしてなかった.

そして好きな人とは別の高校に進学したが, そこでも勉強に耐えきれず, しかし数学だけは必死にしていたから友達はたくさんできた. 話しかけてくれる女子も何人かいた. しかしあまりにも大学受験に偏った非本質的な勉強に耐えきれず, 休学してしまった. 休学中も高校数学や大学数学を必死にやった. 一時期数学から離れて鉄道ファンとして(当時は本名を出さず)活動していた時期もあったが, 誹謗中傷や嫌がらせをきっかけに血を吐くほど病んだので数学に戻ってきた.

高校はそのまま留年したが, 復学後も高校については友達や仲のいい先生方以外は耐えきれず, 数学をしていた. 微分積分, 線型代数, 集合, 位相, 微分方程式, 複素関数, ルベーグ積分, と, 高校の勉強とは全く違う勉強をしていた.

 

楽しかった.

 

その後, 高校を1月8日に中退し, 現実でもインターネットでも居場所が見つからず,

 

死にたかった.

 

まあ, そう言いつつ数学はしていたが, とにかくつらかった. 恋も数学も報われず, 居場所もない人生など, 耐えきれなかった. しかし, 中学の同級生で仲良くしてくれた女子から, Twitterを使うと好きな物でつながれると聞いて, Twitterを始めた. そこで初めて, 生まれて初めて, 数学がきちんと認められた気がした. ちなみにその女子は, 彼氏ができてから, かまってくれなくなった. 寂しい.

結局死にたい気持ちは消えなかったが, Twitterで人生が変わった.

しかし, 鉄道ファンとして活動していた時代に誹謗中傷や嫌がらせをしていた者たちに自分から絡んでしまい, 以後執拗におもちゃにされた. 長かった. Amazonレビューをたくさん書き始めたのも, 当初は今のように人の役に立ちたいからではなく,

 

奴らを見返したいから

 

であった. ちなみにTwitterでは当初から本名を出していたが, それも中学で俺をいじめたり, 俺がうつ状態になったのを見て離れた中学の同級生を見返したいからであった. 結果だけ言うと見返せた気はする. 一人はどうやら改心したようだ.

インターネット上では長く名誉毀損をされたが, 20代後半から脳が疲れやすくなったが, いじめの激化と重なる失恋でメンタルを壊し続けたが,

 

数学に惚れたから

 

今も数学をしている.

ルベーグ積分を必死に学んだので引き続き実解析を, ルベーグ積分を生かして関数解析を, それを生かして偏微分方程式論を, 荒っぽい面もありながら学んで考えた. それが今のナビエ-ストークス方程式の研究に受け継がれている. また, 多様体代数系も学びつつ多変数複素解析も学び, 多変数複素解析のヘルマンダーの方法, すなわち, 多変数複素解析の諸問題を, 既知複素微分形式fと未知複素微分形式に関する偏微分方程式

∂''u=f

を解いて解決する方法に感動した(外微分dをd=∂'+∂''と分解している). これについても何かを考えたいと思っている.

今も生きるのはつらい. いじめられた過去は変えられないし, 失恋もよく思い出す. それでも

 

数学をしていたい.

ディリクレ関数f(x)がx=πで微分不可能であることの証明

f(x)をディリクレ関数(xが有理数のときf(x)=1, xが無理数のときf(x)=0)とするとき, x=πでf(x)が微分可能なら

lim_(h→0)(f(π+h)−f(π))/h

が存在する. f(x)がx=πで微分可能なら, hをどんなやり方で0に近づけても, この極限値が存在しなければならない. しかし特定の近づけ方でhを0に近づけると, この極限は存在しないことを示そう.

(f(π+h)−f(π))/h

は, πが無理数だからhが有理数ならπ+hは無理数ゆえ, f(π+h)−f(π)=0になるから,

(f(π+h)−f(π))/h=0.

hが無理数でh=k−π(kは有理数)の形をしているとき,
(f(π+h)−f(π))/h
=(f(k)−0)/(k−π)
=1/(k−π)
これはk>πかつk→πのとき∞になりk<πかつk→πのとき−∞になる. (πにいくらでも近い有理数が存在するので)

同様にして数直線の任意の点においても微分不可能であることが証明できる. それには

任意の実数a<bに対して
a<r<b
となる有理数rが存在する,

任意の実数a<bに対して
a<s<b
となる無理数sが存在する

ことを使えばよい.

一般に微分可能な関数は連続だから, f(x)は不連続ゆえ微分不可能だが, きちんと微分の定義に当てはめて考えた. 不連続性を示すのも簡単である.

|f(x)−f(π)|

は, xが無理数かつ|x−π|が小さくなれば, いくらでも小さくできるが, xが有理数かつ|x−π|が小さくなれば, 上の誤差は1より小さくならない. 

数学における記号の簡略化 加筆版

数学では, 話者や読者の論理に高い厳密性が問われる. しかし, 数学において, 話者または読者の少なくとも一方がそれを破り, 表現を見やすく伝わりやすくすることがある.

例えば https://mathlog.info/articles/3433でも私がしたように, 関数を, 純粋な意味での集合から集合への写像f:A→Bとするのではなく, Aの任意の元xにBの元yが対応するときのy=f(x)と書かれる対応において, 対応fと従属変数yを同一視して, 関数をy=y(x)とすることである. 確かに正確ではないが, 具体例を扱うときや具体例に沿った論理展開をするときは便利であり, しかも厳密性は問題にならない. リンク先にあるように微分方程式の解法は厳密性を犠牲にしなければ説明しにくい.

また, 多様体の接空間においても, 接ベクトルとベクトル場を同じ記号で書くことがある. 例えば2次元多様体Mの点pにおける接空間(T_p)(M)は局所座標を(x, y)とするとき2つの接ベクトルから成る基底

{(∂/∂x)_p, (∂/∂y)_p}

を持つが, ここでも右下の添え字pを取って基底を

{∂/∂x, ∂/∂y}

と書くことがある. 余接空間(T_p)*(M)についても同様に, 基底を

{(dx)_p, (dy)_p}

と書く代わりに

{dx, dy}

と書くことがある. もちろんこれらはベクトル場や微分形式の正確な定義を既知とした上での表現である.

また, リーマン計量gを内積gということもある. これはリーマン計量gが各点q∈Mで定める内積g_qとgを意図的に混同しているのだが, これは突き詰めて言えば最初の例である.

微分幾何において多様体の接空間やリーマン計量は多様体それ自体と同じくらいよく出てくるのでそれに関する式もたくさん出てくるし, 高次元になればそれだけ右下の添え字pがたくさん必要だが, 後者の書き方をすると式が簡単になるのである. 例えば「2次元リーマン多様体Mの余接空間(T_p)*(M)にMのリーマン計量gから定まる内積をg'と書く」とあれば, これについて, Mの各点qに対して

(g'_q)((dx)_q, (dy)_q)

=(g_q)((∂/∂x)_q, (∂/∂y)_q)

という式を

g'(dx, dy)=g(∂/∂x, ∂/∂y)

と簡単に書ける上に本質が見やすい. (なお, 普通g'もgと書く. )

代数学では, 環RをそのイデアルIで割った商環

R/I

を考えることが多々ある. そこではRの加法単位元0のみから成るイデアル{0}を0と書く. これは

R/{0}=R

と同一視するからである. R/{0}の元はa∈Rを用いて{a}と表されるから(aとの差が0のRの元はaのみであるから[a]={a}である), もしこのように同一視しなければ, {a}とaは異なるから, 和と積を

{a}+{b}={a+b}

{a}{b}={ab}

と定義し直さないといけない. これは不便である. 加群と部分加群と剰余加群についても同様である.

 
数学の初学者には悩ましい習慣かもしれないが, 使い慣れたら便利である. それ以上の深い意味はないが…